長月キョウカのあしあと

つれづれなるままに

会話の記憶にこだわる理由

 友達(だけじゃなくてもいいけれど)との会話はできるだけ覚えようとする。嫌なことは自動的に忘れないようにされるけれど、楽しいことはそうではないからね。たとえば、2年前、友達と遊んだ時の会話を覚えているかと言われたら、覚えてないものの方が多いと思う。楽しかった記憶はあるのに、会話が思い出せないとなると、とても悲しい気分になる。

 会話は一回きりのものだから。同じ状況を完全再現したとしても、同じ会話は生まれない。人間関係は不可逆なものだから。一日一日、あるいはさらに細かく言えば時々刻々と不可逆的に変化していっている。だから、同じ会話はもう2度と生まれない。そんな大切な時間のカケラを忘れてしまうのは、とても悲しいこと。

 だから、できるだけ会話を忘れないようにして、少しでも楽しかった記憶をとどめておきたい。記憶はどうしても美化されてしまうからね。これは一見、良いシステムのように思うけれど、必ずしもそうとは言い切れない。だって、都合の悪い部分、気まずい部分を含めて、そのときの会話だもの。美化されてしまったら、もはや本物の時間のカケラではない。それはそれで悲しい気分になる。

 もしかしたら、その人と会話するのは今が最後かもしれない。会えると思っていた人と2度と会えなくなることが急に来ないなんて、誰にも言い切れない。だから、伝えるべき想いは伝えるべきだし、伝えるべき言葉は伝えるべき。でも、難しい。素直に気持ちを述べることがどれだけ難しいことか。

 小・中・高・大・院ですべて接続が切れているから、程度の深い友人はおらず、どこにも居場所はないのだ。だから、少しでも自分にも好意は向けられていたんだと感じていたい。だから、会話、その記憶を大切にして、それを抱いて生きていきたい。とことん生き抜くつもりだけれど、最終的に、かき集めた大切な時間のカケラを思い返したい。